主体の回復/日本的精神からの離脱

 子どもを汚染地帯から連れだせなくて、自分ではどうにもできず苦しんでいますが、自分の中にほとんど主体がなくなってきているのが分かります。

 何かが好き、誰かが好きという状態は日本語では、「好き」で表現されますが、本来は主体と客体が確立されていなければ成立しません。

渡辺真也さんが、

I love you=「わたし、死んでもいいわ」=「月が綺麗ですね」

( http://blog.goo.ne.jp/spikyartshinya/e/268aeab5aecc7c006291d357e9e33e92 )

というブログエントリを書かれていますが、この中の夏目漱石の言葉は日本人の主体性のなさを示しています。主体と客体がなくなるどころか、述語さえなくしてしまう。つまり、誰が誰をどう思うか、何をするのかなど問題ではなく、言語化し得ない状況が存在することのみを認知するのが「日本人らしい」ことだと。夏目漱石の言葉を現代に翻訳すると、「空気読め」ですね。

今年は、主体を回復する年にしたいと思います。「一般的に〇〇が良い」「これは、△△と言われている」ではなく、「私はこれが好きだ」「私はこう思う」という「自分」を自分の中に持てる年にしたい。どうしたらできるのか分かりませんが、それは夏目漱石が文学で強化した(あいつも東大教員だ)、日本人の思考体系から、外れていく行為にしたい。

 まとまりませんが、フォローさせて頂いている、ある方の言葉を引用して年頭のあいさつに代えさせて頂きます。

「反被曝は人間としての権利だ。誰にも無益な被曝を強要される覚えはない。」