論理が失われた街で

 Twitterである女性と阪大教授のやり取りが続いていました。山本太郎さんが差別主義者かどうかという論拠を巡ってなのかな。詳しくはヒンドゥークシ氏のTogetterまとめもありますからそちらで。

 ただ話の土台というか、論理体系が違うところで140文字でやり取りをしているので結論には至らないと思うのですよ。「山本太郎は差別主義者である」。日本語で13文字。26バイトくらい。これをどう解釈するか。
 (1) まず、差別主義者の集合を定義する。
 (2) 山本太郎に関する情報を収集、定義する。
 (3) 次に山本太郎が差別主義者の定義に合致するか否かを判定する。

 (2)はできたとしても、(1)と(3)はまちまちな定義や判定ができてしまうだろうから、一人ごとに結論が異なってしまう。
 普通は議論できます。一般的にはこのように定義されているという議論が。しかし日本の社会は自由資本主義社会で民主主義国家です。論理的に正しいことが社会的に正しいとは認められません。社会とは地域社会であったり、会社だったり、学校だったり。

 「重み付き多数決」なんですよ。

 地位や財力のために発言力の強い人が言えば真実になってしまうし、論理的に正しくても、90%の人間が「震災のあとに逃げたようなヤツは差別主義者に決まってらあ」とネトウヨ発言をしたら、それが投票の結果、真実にされてしまう。

 そもそも日本人の9割くらいは論理的な文章を書いたり、論理的な議論をする能力を持っていません。そのように訓練されていないからです。資質のある人は半分くらいはいると思うけれど、社会人になって会社や地域社会の中ででたらめな指揮命令に従っているうちに論理的な思考ができなくなってしまう。

 その9割が秋葉原で日の丸を振り回して騒いでるネトウヨに煽られて差別主義者だと言ったら、「山本太郎は差別主義者だ」が真実と判定される。それが民主主義です。

 つまり、自由資本主義下での民主主義というシステムが、人間から論理的思考能力を奪う。その状況下で論理的な議論をするというのは、非論理的な行為のように思えます。


震災の2年後の初夏 うさ記